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昔の風景、昔の出来事

高校生の頃から今まで、ほぼ同じ地域で生活をしているために
移動する度に、嫌でも昔のことを思い出すことがよくある。



この通りに昔中華料理屋さんがあったとか
ビートルズが鳴っていた喫茶店があったビルとか
いつも待ち合わせをした改札前とか
捨て猫を見つけた公園とか
何時間も座っていたお寺の石段とか

今は違うビルが建ち面影の欠片もない場所もあるのに
頭の中の風景は色褪せることがなく
立ち止まっている自分だけが年老いて

この駅の改札口で来ない人を待ち
この店で新譜のレコードを探し
ゆるい上り坂の先に線路があり
どんぐりを拾った道はここで
炒りたてのポップコーンを買った店はここ

忙しい日常や見せかけだけの権力に踏みつけられて
誰かの名前を懸命に呼んだ気がしたけれど
その声も強い風で乾いてしまった

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抱きしめる

急に母親を亡くされた会社の先輩から言われた。
「動かなくなった母のそばで、とても後悔をした。それは、母が生きている間に、しっかり抱きしめなかったこと。冷たくなってしまった母の身体を何度も抱きしめては、どうして生きているうちにギュッと抱き合わなかったのだろうと、深く深く悔いた」

彼女はこうも言った。
「私が以前、あなたに『私はマザコンだ』と言ったらあなたも『私もですよ』と即答したよね。お母さんが元気なうちに、しっかりと抱きしめてほしい。私みたいに後悔しないように」

それを聞いて思い出した。姪が中学生だった頃か、母が「可愛い可愛い」と背中からギューッと抱きしめているのを見て、心の底から羨ましいと思ったことを。先輩の無念さを思い、泣いた。



母は背中が曲がり、すぐに息がきれてしまうので、家から出ることもほとんどなくなっている。

週に一度、おかずを持参して会いに行っているが、いつまで元気でいるかなんて誰にもわからない。


先週、実家に寄った時に「今日はお母さんをギューッとしに来たよ」と言うと、ちょっと驚いた後、「なんで?」と少し照れくさそうな顔をしていたが、構わずにそっと両手を背中にまわして優しく抱きしめた。
母も私の背中に手をまわして抱いてくれ、片手で頭を撫でながら「よしよし」「いい子いい子」と言ってくれた。私は母の曲がった背中をゆっくり撫でながら「お母さん、ありがとう」と言っていた。
母は「いつも仕事がんばって偉いねぇ。お父さんに似て、頑張り屋さんだから」と褒めてくれた。

誰も私の仕事について興味がないと思っていたのに…

それはきっと、孫の顔を見せてあげられないことに対して負い目を感じている私への、母の優しさなのだと思う。

これから先、母も父もどんどん小さくなり弱くなっていく。私は仕事に追われつつ、姉に頼りながら両親の世話をする中で、きっと小さな諍いやすれ違いが起こることだろう。
でも、その度にぎゅっと抱きしめよう。
そうすることで、何かが少しでもうまくいくような気がするから。
いつか訪れるさようならの時まで、何度もぎゅっと抱きしめあい、大好きだと伝えよう。


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Y君がしんじゃった

3日前。
◯◯営業所のY君が、自宅で亡くなっていたという、とんでもないニュースが飛び込んできて、部内が異様な空気に包まれた。

警察から連絡があったというから、ちょっと普通のことではなさそうだ。

一人暮らしだったというY君の元へ、関東からご両親が向かわれたという。

私とY君は、3週間ほど前に催事の展示会場で一緒だった。社員が集まる勉強会や日常の電話連絡で何度も話はしていたが、長時間にわたって顔を合わせるのは初めてだった。


ふんわりパーマヘアにおしゃれなスーツ、おとなしい顔立ちのY君は、営業職としては内向的で、不思議な雰囲気を持つひとだった。

Y君が担当していた得意先のリストを見ると、沢山の店舗をまわっていたことがわかった。

なにがあったのかはわからない。
どんな状況で発見されたかもわからない。

私が知っているのは、あの日のことだけだ。



準備で製品のディスプレイをしていると、「僕こういうの好きなので、やらせてください」と器用に飾り付けをしてくれたこと。

センスあるね、と褒めると「上手くはないんですけど、こういう細かい作業が好きなんです」と言いながら、自分で施したというデコレーションが輝くスマホケースを見せてくれ、恥ずかしそうに笑っていたこと。
「こんなことができるなら、営業から部署異動したいな」と言っていたこと。

他社の担当者と仲良くなれたと思っていたのに、会場ではその人が「他の人とばかり話をして、僕を見てくれない」と拗ねていたこと。

「関西弁の女性は苦手なんですよね」と言いつつ、私に色々話をしてくれたこと。



展示ブースでの退屈な待ち時間を、腰が痛いだの脚が痛いだの愚痴を言い合いながら乗り越えた、あの日。

Y君が死んでしまわなければ細かいことなど忘れてしまったかもしれない、そんな何でもない一日だったのに。
突然いなくなったことによって、忘れてはいけない日になってしまった。



ご両親に渡すために、過去の催事の写真からY君の姿を拾い、クラウドに移していく。

そんなに深く関わっていたわけでなくても、人の死は重く、辛い。

あの日、Y君が写っていた写真はたった1枚だけで、顔はカメラと反対を向いており、表情はわからなかった。

あの日、彼は楽しかったのかな。


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親の願い

毎年毎年、親から届く年賀状には
「無理せんとボチボチやりや」と、父親の達筆すぎる字で、そう書いてある。

私は高校を卒業してから今まで、
大学こそ進学していないながら
自力でなんとか
恋愛も
仕事も
自由とか
友達とか
掴み取ってきたように感じていた

でも毎年毎年
「無理せんとボチボチ」という親からの言葉の前に
認めてもらえない自分をつきつけられてしまう

娘は
社会的な価値でなく
結婚して
子供を産んでこそ認められる
その呪縛からどうしても抜けられないのだ

仕事を認められることでなく
子供を産んで育て
旦那さんの世話をすることが
女の仕事

旦那の実家に行けば
「孫は…」という無言の圧力
親の願いは子供の結婚なんかではなく
そこからまだまだ先があるのだということを思い知らされる

どれだけ頑張っても
誰にも認めてもらえない

仕事をする女は孤独です



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27才

子供らしくない子供だった。
外の世界がぼんやりとしか見えなかったので、動くことに消極的だったために、自分の心の動きに集中していたせいかもしれない。

「いじめられるから嫌だ」と泣いて抵抗する私を、祖母や母は引き摺るようにして幼稚園へ連れて行った。小柄でやせっぽちな自分が大人に勝てるわけがないと諦めた頃、どうしたら幼稚園へ行きたくなるかを思案した。
「誰かを好きだと思い込もう。そしたら楽しくなるはずだ。」そう決めた私は、ある男の子を無理矢理好きだと思い込もうとした。その子はおとなしく、いじめられる私を助けてはくれなかったが、自分から他人をいじめることは決してしないような子だった。
「私はあの子が好き。だから顔を見るために幼稚園へ行こう」そう呪文のように唱えながら、なんとか自分を奮い立たせていた。
本当に好きになることはなかったが、殺伐とした日々をやり過ごすための自分なりの上手い対処法だと思っていた。
しかし大人になってからこの出来事を話すと、「そんな事を考える幼稚園児はいない」と言われた。

サンタクロースの存在など信じたこともないのに、「子供らしくしなきゃ」と、枕元の贈り物を持って「サンタさんが来たよ」と親に見せに行き、あまりの白々しさに「お父さん、お母さん、ありがとう」と言いなおしたこともある。



大人になるまでの長い間、自分の実年齢と中身が合っていない気がしていた。
身体に合っていない服を着ているかのような、そんな感じだ。
どうやったら、世間一般的な子供になれるのか、ずっと模索していたように思う。

そんな私が27才のある日「あ、今だ」と思った。
自分の心が、ちょうどいい外側に収まっている感じ。無理をせず、何をしても楽になった。
世の中に、そんな感覚を味わった人はいるだろうか。
大人になるのは素晴らしいと心の底から思った。

その後どうなったかというと…
当然のことながら外見がどんどん古びていき、中はそのまま、という状態である。


今でも時々思う。
27才とは自分にとって何だったのだろうと。


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自分の人生は自分一人では決められない

自分の人生だから自分が好きなように生きる
そんな言葉が当たり前のように響いている、現在…

私は自分の好きなようには生きられない

自分の人生は、身近な人たちの人生と何重にも重なっていて
その絡まりを解くことは不可能だと思う

自分の勝手で死ぬことなんてできない


私は自分の家族を自死で失い
17歳の頃の恋人を自死で失った

家族を失ったことは残された家族の人生に大きすぎる影響を与え
昔の恋人を失ったことは私の人生の一部を空っぽにした

自分の人生だからといって自分の好きになんてできない

そう考えてから私は、親が亡くなるまでは決して死なないように
毎日細心の注意を払って生きている

家族の自死で、私よりもずっと傷付いているであろう両親の人生を
これ以上台無しにすることは許されない

両親がこの世の中にいなくなったら
その次の日に死んでもいい
そう思って生きている

生きていくことはとても辛くて
ともすれば心が折れてしまいそうになるけれど

自死を選ぶことがないよう
必死で空を仰いで
今日一日をのりきろうと
そう思って生きている

自分の心の成長が止まったのは27歳で
それからずいぶん歳を重ねてきたけれど
私の心はまだ27歳のままで

若い頃に恋人に話していた
自分の人生を終えたい年齢に
あと一月で届いてしまうけれど

あと一日、あと一日と
薄い膜を重ねるように日々生きていく

自分の人生は自分だけのものじゃないから
どんなに苦しくても生きていく


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贅沢

いくつか転職をしたけれど、ふと気づけば今の会社に在籍している年数が一番長くなってしまった。
人生の半分以上を働いて過ごしてきたが、この会社にそんなに長くいるとは思わなかった。

この会社で定年まで勤めるのだろうか。
最近、そんなことを漠然と考えはじめた。

この会社は60才で定年、その後望めば嘱託として5年勤められる。
周囲には嘱託として会社に残る人が多くなってきた。
私がいる部署も5人のうち2人が嘱託だ。

しかし、嘱託の人達の意欲は、見ている限り極めて低い。
なんとなく「出勤して時間を潰していれば、お給料が貰える」と思っているようにしか見えず、後輩に仕事を引き継ぐとか、人を育成するとかいう意識は全く感じられない。
引き継ぐべき事を隠し、こちらがそれを見つけてもやり方を教えない。
暇そうなので仕事を依頼しても、全く成果は得られず、かえってフォローに時間が割かれるばかりだ。

そんな身勝手な人達に振り回され、日々神経をすり減らして仕事をしている。

60才になったら仕事を辞めて、もう嫌な人とはつきあわない生活を送りたい。
今まで人間関係で散々苦労をしてきたんだもの、それくらいの贅沢はしてみたい。
それに、「あの人、使えないのにいつまで会社に来るんだろう」と言われるのもいやだ。

やりたいことはいくらでもある。

ふたたびピアノやクラリネットの練習もしたいし、絵も描きたい。書道もしたい。糠漬けも漬けたい。ゆっくり読書もしたいし、花や野菜も育ててみたい。
もっとも、それくらいの年齢になると、親の介護をして会社を辞めても忙しいかもしれないが…
それに、そんな贅沢をするには相応の蓄えが必要だろうな。


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天職とは

随分前に、「天職ってあると思うか」と訊かれたことがある。

辞書をひくと
〔天から与えられた職務の意〕
①その人の性質・能力にふさわしい職業。

と書いてある。
ネットを見ると、「天職の見つけ方」や「天職を探そう」という言葉が出てくる。

私は「天職とは思い込み」と思っている。
もともと、その人の向き不向きはあったとしても、「天職」と思えるものに出会える確率は極めて低いと思った方がいい。
そんなちょっとやそっとで、天から与えられた職になんて巡り合う訳ない。
チェックシートをちょちょっと書いて、診断できるほど簡単なものじゃない。
探したって、すぐには出てこない。
天職か天職じゃないか、そんなことにこだわらずに、とりあえず目の前にあるものにガッツリ取り組んでみればいいと思うのだ。
自分が「これが天職」と思えるくらい、のめり込めて、それを仕事にできればラッキーだし、まあそこまでではなくても、それを「天職だ」と思い込もうとするのもいいと思う。

「夢は必ず叶う」という言葉が氾濫しているように思う。
必死に夢を探し、それに向かって努力し続けることは大切かもしれないが、「必ず叶う」わけはない。万人に奇跡は起こらない。
夢を持たないことが罪であるかのように必死に夢というわれるものを探し、疲れてしまうのなら、自分の器を知り、受け入れ、その中で日々努力することも必要だと思う。
家業を継ぎ、精進を重ね、そしてそれを「私はこれしかできませんから」と平然と言ってのける職人さん。小さな会社や工場、商店、現場で毎日懸命に仕事に取り組む作業員やパートさん。みんな痺れるくらい恰好良い。
私には、そんな普通のことが本当に素晴らしく思えるのだ。

地味な裏方であったとしても、自分の仕事に誇りを持って精を出す、それが「天職」に近づく道であるような気がする。


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泣く

幼稚園からヤマハ音楽教室へ行き、小学生からは両親に無理を言ってピアノを習わせてもらった。

このピアノの先生が、とんでもなく厳しかった。

週に一度、家の近くの坂道を登って先生の家へ通っていた。

個人レッスンなのだが、私が通う前後の時間には生徒さんがいなかったので、いつも先生の家は静まりかえっていた。
黄色に塗られた門を開けて、玄関の大きな引き戸を開けて「こんにちは」と挨拶をする。返事はない。
靴を脱いで揃え、そろそろと廊下を歩くとき、いつも自分の履いているジーンズの裾が擦れる音が響いた。

廊下を歩いてレッスンをする部屋に入る。
夏には扇風機がまわり、冬にはオイルヒーターがある大きな部屋に
アップライトピアノとグランドピアノが1台ずつ、それに大きなエレクトーンもあった。

静まり返った部屋の中、教則本をグランドピアノに置き、指の練習である「ハノン」から始める。たぶん、その音を先生は別室で聞いている。
自分の家にあるピアノとは違い、先生の家のグランドピアノは、恐ろしくキーが硬かった。指先に力を込めて弾いても、音がよく鳴らない。やせっぽちで非力な小学生にはとても辛かった。

「ハノン」の課題曲が一通り終わる頃に、先生が部屋に入って来る。
それまでの一連の流れも、慣れるまでには時間がかかった。
~挨拶しただけで、勝手に部屋に入ってもいいの?~
~勝手に練習を始めていいの?~
誰も教えてくれないので、最初はおそるおそる様子をみながら、自分なりのやり方で頭の中に手順書を作っていった。

先生はいつも大きな声で私を叱った。
「どうしてそんな弾き方をするの!」
「その指使い、間違ってるでしょ!」
…私は「もう一度、この小節から弾きなさい」というような具体的な指示が出ると思って待っているが、
先生はその後、一言も発せずに私を睨み続けている。
おずおずと、その前の小節から弾きだすと、
「そんなところから弾いちゃだめ!」
「弾き方が弱い!最初の音からしっかり弾きなさい!」と、また叱られる。

「だいたい、この曲は何調かわかってるの?!」と言われるので、消え入りそうな小さな声で「ホ…ホ短調です」と答えると、「ホ短調でしょ?!だったらホ短調らしく弾きなさいよ!」と叱られる。
…まだもっと叱られるかもしれないから待っていた方がいいのかな?と、じっとしていても沈黙の時間が流れるばかりで、先生は何の指示も出さない。私を睨んでいるだけだ。
部屋には扇風機の音と、蝉の声、そして外の道を通る車の音が響いているだけだった。
どうすればいいんだろう?どこから弾けばいいの?
子供の私には全然わからないので、暫く考えて、曲の最初から弾く。…叱られない。これが正解なのか?

レッスンの間中、私は先生との距離感をつかむのに必死だった。

やっとその日のレッスンが終わり、「また来週ね」と言われ、「ありがとうございました」と部屋を出る。
廊下をジーンズの擦れる音を聞きながら歩き、誰もいない玄関で再度「ありがとうございました」と頭を下げて外に出る。

その繰り返しで、楽しい思い出は何ひとつなかったのだが、私は両親に「ピアノを辞めたい」と言う勇気がなかった。我が家の経済状態には明らかに高額のピアノを、私のために買ってくれたのがわかっていたからである。

毎日、先生に叱られないように練習し、気乗りしないレッスンに毎週通った。それはまるで修行のようなものだった。唯一の救いは、母が「あんたのピアノの音は優しくて、澄んでいて大好きや」と言ってくれることだった。

夏休みになると、ごく稀に練習時間が変更になることがあった。
坂を上がって先生の家に向かうと、玄関に子供用の靴があり、私の前に他の生徒さんが練習に来ているのがわかった。しかし、ピアノの音はしない。
静かな廊下を通って練習室の扉を開けると、そこには私と同じくらいの年齢の女の子と先生がピアノの前に座っていた。 私は横のソファに座り、順番を待った。
静かだな…と思ったその時、私は気づいた。その女の子はピアノの前で泣いていたのだ。
きっと先生はいつものように叱ったんだろう…と思ってハッとした。「叱られて泣くんだ」と…。

その女の子は、一生懸命練習してきて、それでも叱られて悔しかったのか、それとも単に先生が怖かったのか、それはわからない。でも、私はいつも「どうすればこの状況から抜け出せるのか」と悩んではいたが、泣くという感情が動いたことはなかった。それだけに、そのことについて衝撃を受けた。

学校でいじめられる。
ピアノのレッスンが辛い。

自分の中では、この要素は「泣く」という感情には繋がらないものだった。
きっと多くは「困った、どうしよう」と対処法を考えるか、「腹立たしい」という感情に変換されているのだろうと思う。

その後も、年に何度か他の生徒が泣いている姿を目にすることがあった。
ピアノには中学を卒業するまでずっと通った。先生が私のことを「一度も泣かない可愛げのない子だ」と思っていたかどうかはわからない。でも、最後の何年かは、それほど酷く叱られることもなくなっていた。
もっと長くピアノを続けていれば、先生と仲良くなれたのだろうか。



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本当の顔は?

ブログのタイトル通り、うしろむきな暗い話題が続いているが、私は見た目「前向きで面白く、人見知りしない」という正反対な印象を人に与えているようだ。

実際のところ、一日のうちの殆どを私は前向きで面白い「外の顔」で過ごしているし、またそれが本当の顔のような気もしないではない。
夫が私と結婚した動機は「変わった人だから興味があるし、一緒に面白く暮らせそうだから」という、見たことのない生物の生態を観察したいというようなものだったらしい。
夫は自分の「普通すぎる性格と人生」にコンプレックスがあるという。

色々問題はあるかもしれないが、日々の暮らしに笑いは絶えない。会社での仕事は忙しいが何でも前向きに取り組み、残業から帰ると炊事や洗濯が待っている。会社からのメールも入る。疲れ果ててベッドに入れば次の瞬間に意識はなくなり、すぐに翌朝が来る。
結婚前、夫に「色々なことを考えていると、どんどん深いところへ行ってしまう」と言ったところ「忙しくしたら考えなくてすむよ」という答えをもらったが、その方法はなかなか上手くいっているということか。


私の育った家庭は、休日には必ずレコードやラジオが鳴っているような家だった。タンゴやマリアッチ、フォルクローレ、ロックにフォークにクラシックにジャズ、シャンソン、幅広いジャンルの音楽を聴いて育った。母は油絵、伯父は染色作家で一風変わった面白い人だった。父は落語も好きで、ユーモアのある人だった。
「明るく面白い」という要素は、自分の中にたくさん見つけることができるので、それが「外の顔」として出ている(出している)のは全くおかしなことではないと思う。

しかし、自分をくるりと裏返してみると人見知りはするし暗いし意固地だし、「内の顔」の割合も相当なものだ。「外」と「内」どっちが本当の顔なのか、「どっちも自分」と大らかに認めるには落差が大きすぎるような気がする。

それでも、幼い頃にはいつも「死んでしまいたい」と思っていたのが、そのうち「親より先には死ぬまい」になり、今は「夫にごはんを食べさせないといけないので何とか今日は死なずに帰りたい」になっているのは、成長しているのか、鈍くなっているのか、世界が狭くなっているのか、いったい何なのだろうか。


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