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一生わからんかもしれへんけど

自分の人生で大きな位置を占めている人からハガキが届いた。
新しくお店を出しますという案内だった。

彼とは同い年で18歳から6年間、とても仲良くしていた。
私は家庭がそれほど裕福でないこともあり、高校を卒業してすぐに就職した。
彼は一浪した後、それまでの志望とは全く違う私立の美術系の大学へ進学した。それは、私が今まで得意としていた分野であり、私が就職した職種も美術系だった。

彼と私は考え方も似ていたし、趣味も合った。
本当に優しい人で、大きな喧嘩をした記憶もない。
まだ携帯電話などない時代、電車が雪で遅れ、待ち合わせの改札で彼を3時間待ったこともあった。
彼は毎週末、バイクを長時間走らせて私に会いにきてくれた。
いつも特にどこに行くわけでもなく、お寺や河原で何時間も飽きることなく話をしていた。
彼の部屋で課題の作品を手伝ったり、美術館へ行って芸術論のような話もした。
CDを聴いてはアーティストの話をし、コンサートにも必ず一緒に行った。

お互いの家族とも仲良くなったし、このまま一生離れることはないと二人共が思っていた。

私は就職をした先で色々な仕事を任せられ、それに伴ってそれなりに辛い目にも遭っていた。
会う度に面白可笑しく職場での話を報告していたが、彼は夢いっぱいの大学生だったので、「これは言っても解ってもらえへんよな」と思うことも多かった。

同じ年齢であっても、大学生と社会人とでは差が出てくるものだ。大学での楽しい話を聞き、羨ましく思いながらも、彼が大学を卒業して就職すれば、社内での使えないおじさんや煩いお局さま、気の合わない人たちとの付き合い方や仕事の苦労など、愚痴を言い合ったりできるはずだ…そう信じていた。その時を待っていた。

彼が卒業したらきっとそのうち結婚するんだろうな…と考えつつ、その頃プロジェクトのリーダーを任せられていた私は、「女に何が出来る」という頭の固いおじさん達と日々戦い、心が徐々にすり減っていた。


彼がもうすぐ卒業するという頃、急に「大学院に行く」という話を彼の口から聞いた。
彼は柔和な雰囲気だが、意志は強く、自分の進路はいつも自分で決めた後で私に報告するような人だった。志望の大学を変えたときも、大学院へ行くことを決めたときも。
彼のことは常に応援していたが、どうも私は彼の隣ではなくて後ろで旗を振っていたように思った。
大学を出てもこの分野では自分の好きなことが出来ない、なので大学院でもっと勉強して就職しようと思うと言っていたが、その時私は頭の中で私立の大学を出て、大学院にまで行ける彼の家庭の裕福さに驚くとともに、「仕事はそんなに甘いものじゃない」「結局現実から逃げたいの?」「私はあと何年待てばいいの?」と、そんなことばかりを考えていたように思う。日々「結果を残せ」という会社の中で生きている私には、彼が甘えているように感じたのだ。

それからほどなくして、私は彼に別れを告げた。
彼と同じような美術・芸術系の分野にいても、私は常に現実の中でもがいているサラリーマンであり、大学院に行ける彼の境遇に嫉妬しているかもしれないということを伝えた。
彼は驚き、悩み、気の毒なくらい憔悴していたが、何度話をしても私の心の隙間は埋められなかった。

とても辛かった。彼と別れることなど、それまで考えたこともなかったので、暫くはどうしたらよいのかが分からず、ただ茫然と日々を過ごした。
彼を忘れるために、傍に寄ってきた男性とつきあったこともある。すぐに結婚話がでたが受けられずに別れた。


何年かが経ち、どうしても会いたいという気持ちが抑えきれず、散々迷った挙句に彼に連絡をした。
すると彼は既に結婚をしていて子供もいた。
大学院を出て、目指す分野での大手の会社に就職し、結婚したと聞いた。
しかし、その会社を辞めて、彼がまた違う道を歩んでいたことに言いようのない衝撃を受けた。
その道を目指すために、海外に勉強に行き、他県の学校へも行っていると。
彼がどんな仕事を選ぼうと、今の自分には全く関係のないことなのだが、どう言えばいいのか…私が羨み、卒業するのを待っていた、大学や大学院での経歴を彼があっさり捨てたことへの悔しさ?憤りのようなもの?そんなよくわからない感情が炎のように全身を包んで、部屋の中で身体を折り、声を上げて泣いた。
私の気持ちは無駄だったのか?生まれて初めて、叫ぶようにして泣いた。

どうしても諦めきれずに、無理を言って一度だけ、彼に会ってもらったことがある。
彼や彼の奥さんにはきっと迷惑をかけたことだろう。
私と彼が過ごした週末毎の時間をいくら繋いだとしても、その何倍もの時間を彼は奥さんと生きているのだから、彼はもう私の知っている彼ではないのだ、ということを自分に納得させるために、どうしても必要な工程だと思ったのだ。
特急電車で長い時間をかけ、行ったこともない県の知らない公園のベンチで、ちらちらと時計を気にしている彼と何の深みもない話でほんの10分ほど言葉を繋いだ後、唐突に「奥さんが待っているから」と、あっさり彼は帰っていった。
彼はもう私を見てはいなかった。他人の夫であり、良きお父さんだった。初めて行った公園の白々しい風景の中に取り残され、私は空を見続けていた。


その後私はいくつか小さなデザイン事務所や会社を転々としたが、職種は相変わらず同じようなことをしている。強いこだわりはなかったが、どこの会社に行ってもデザインが出来るということを重宝がられ、自然と同じような仕事を任せられる。
そして仕事先で出会った年下の男性と結婚をした。私と同じく、それほど裕福ではない家庭で、仕事をかけもちして懸命に働く姿に惹かれた。子供はいない。二人で働いてやっと普通の暮らしができるくらいの収入しかない。忙しい毎日だが、不満ではない。

勉強を終えた彼が他県から戻り、自分の工房を作って順調に仕事をしていることは、偶然ネットで知った。

彼の仕事は色々な人たちとの交流で育っていくのだろう。
私は会社という小さな世界の人たちと仕事上だけで繋がっている。私はとても明るく社交的に見えるようだが、とても暗い顔も持っている。特に今の会社には心を開ける人は殆どいない。でも…私には、そんな小さい世界で収まるくらいの仕事が丁度いいのだろう。

夢を叶えられる人は、ほんのひとつまみしかいない。大抵の人は生活のために色々なことを諦めながら生きていく。自分の器を知り、その中で頑張ることも大切だと私は思っている。
彼は回り道をしたにせよ、好きなことを仕事にできて幸せそうに見える。それはとても良かったと、そう思ってはいるのだが…


世の中の常識でいえば、もう彼のことは良い思い出として残しておけ、というところに落ち着くのだろう。
いつまでもそんなことに縛られていたら前に進めない、と言われるだろう。
実際、彼のことを考えると、自分の嫌なところを目の前に突きつけられる気分になるし、自分の中の暗くて大きな穴を覗き込むことになる。
でもそれもいいと思うのだ。もう長く生きてきた。これからも涙を流しつつ、辛い思いをひきずりながらも生きていくだろう。
彼への複雑な思いは、自分でもよくわからない。
色々大変なことは多いと思うが、退社後に留学も出来、工房を持ち、お店も出せるというのは恵まれているように思えてしまう。やはり嫉妬しているのだろう。
しかし多感な時代を共に過ごした彼との6年間を思うとき、今でもうずくまるほど苦しくなるのだ。


彼のお店が開店する日だ。
私が決して行くことのないその場所には、彼へのお祝いの言葉と多くの人の笑顔があふれ、華やかな空気が流れているだろう。

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